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アインシュタインと初代教授三宅速の友情
大正11年、改造社の招きで来日したアインシュタインが、当初は予定になかった福岡行きを強く希望した理由をご存知だろうか。
「物理学の世界的碩学アインシュタインが、なぜ福岡に来たか」というと、九州帝国大学外科教授の三宅速を表敬訪問するためであったのである。 来日途上の北野丸船上で体調を崩したアインシュタインを、欧米の医療事情視察を終えて帰国するために偶々同船していた三宅速が、 流暢なドイツ語を駆使して懇切丁寧に診療したことに端を発していたのである。
アインシュタインと三宅速
粘血下痢便をみたアインシュタインが、自分は直腸癌ではないかと心配したが、幸いに軽い痔出血のようなものであったというのが真相のようであり、 アインシュタインを診察した三宅速が、このことに関して多くを語らなかったこともあり、 巷間アインシュタインは船上で「モーチョー」の手術を受けたなどといわれたこともあった(この辺の事情は三宅速が自身の日記をまとめた「或る明治外科医のメモランダム」に詳しい)。
そして、この時大きな恩義を感じたアインシュタインが、滞日中に三宅速を表敬訪問したいと強く希望したことから、福岡行きが実現したのである。 この時アインシュタインがエルザ夫人とともに投宿したのが、その当時橋口町にあった福岡の迎賓館ともいうべき「栄屋旅館」であった。 日本式旅館と日本式「おもてなし」に大いに満足したアインシュタインは、館主の要望に応じて毛筆で揮毫(サイン)を遺し、それらが栄屋旅館に扁額として大事に保管・展示されている。
その後の裏話として、「ユダヤ人のサインを展示しているのは怪しからん」と当局からお咎めを受け、戦時中は市外に疎開していたため、昭和20年6月の福岡大空襲による焼失を免れたとのこと。なお、写真の上の揮毫は、館主が修猷館の関係者であったということから、レプリカとして石版が修猷館高校資料館に遺されている。
遺されているレプリカ石板
また、市内の大博劇場で行なった一般向け講演の際、福岡高校(旧制福岡中学)から借り出した黒板に3つの説明図を記載した。 それを貴重であると考えたある教諭がニスを塗って保管していたが、終戦後に行方不明となり、写真だけが残されている。
直筆の黒板の写真
その後もアインシュタインと三宅速の友情は続き、米軍の空襲に遭って亡くなった三宅夫妻の墓石には、アインシュタインの追悼文が刻まれている。「ここに三宅博士と妻・三保夫人が眠る。ふたりは人類の幸せのために尽くし、そして人類の過ちの犠牲となって、この世を去った」。
アインシュタインの追悼文